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沼崎勲~過労死した俳優~


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◆沼崎勲(ぬまざきいさお 1916年2月18日生)
 [俳優]


 神奈川県出身。1936年、J.O.スタヂオ俳優養成所入所。1937年、J.O.スタヂオが、P.C.L映画製作所などとの合併から生まれた東宝映画株式会社の設立により、東宝映画京都撮影所所属となる。1941年、『暁の進発』(東宝映画京都撮影所)で、初めて名前がクレジットされる。東宝映画京都撮影所閉鎖により、東宝映画東京撮影所に移る。戦時下でしだいに若手スターのひとりと期待されるようになるが、1944年に応召されビルマ戦線を転戦。1946年に復員し、東宝復帰。1947年、成瀬巳喜男監督『四つの恋の物語 第二話』、黒澤明監督の『素晴らしき日曜日』に主演。映画ファンであれば誰でもその名を知る俳優となった。

 有名俳優となった矢先、東宝争議に巻き込まれ、東宝を退社。1950年には占領軍指令によるレッドパージにかかった。その後、独立プロを中心に活躍したが、1953年に藤原杉雄監督『赤い自転車』のクランクアップ前の8月16日、撮影の疲労による心臓麻痺のため自宅で急逝した。

 1953年8月16日死去(享年37)



猫田勝敏~病魔に倒れた伝説の名セッター~


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◆猫田勝敏(ねこだかつとし 1944年2月1日生)
 [バレーボール選手]


 広島県生まれ。小学校時に、バレーボールを始める。広島市立安佐中学校時代では、9人制でセンターを務めていた。崇徳高校に進み、当時の監督の稲葉正文に、セッターとしての素質を見出される。1959年の1年生時に、国体高校男子で優勝を果たす。

 1962年、高校卒業後、地元の日本専売公社広島地方局(現日本たばこ産業広島支店)に入社。専売広島男子排球部(現JTサンダーズ)に入部した。直後に、当時の全日本男子監督、松平康隆の目にとまり、同年12月、18歳で初めて全日本に選出される。

 1964年、20歳で東京オリンピックに出場し、銅メダルを獲得する。これ以降、猫田は全日本の正セッターとして不動の地位を築いていった。1968年、再び松平監督の下で、メキシコオリンピックで銀メダルを獲得。1971年9月、翌年にミュンヘンオリンピックが迫っていた中、試合中に西本哲雄と接触し右腕複雑骨折をしてしまう。オリンピック出場が危ぶまれていたが、約8ヶ月のリハビリ生活の末に、オリンピック開幕2ヶ月前の1972年6月、NHK杯で試合復帰を果たした。

 そして同年8月、ミュンヘンオリンピックで念願の金メダルを獲得、日本バレーを世界の頂点に導いた。1976年のモントリオールオリンピックでは日本選手団の旗手も務め、競技では4位入賞を果たした。1980年、ブルガリアで開催されたモスクワオリンピック最終予選を最後に、現役を引退。長年のバレーボール界に尽くした功労を賞されて、同年6月、日本バレーボール協会より「バレーボール栄誉選手賞」を受賞した。

 引退して直ぐに専売広島の監督に就任し日本リーグから采配を振るっていたが、1981年に胃癌に蝕まれていることが発覚。1983年9月4日、病魔には勝てず39歳の若さでこの世を去った。

 努力家であり人格者でもあり、生涯をバレーボールに費やした。奇策「天井サーブ」を編み出したことでも知られる。練習、合宿、遠征、試合の連続で家族を顧みることも出来なかったが、それを思ってか胃癌に侵された際の闘病中に「かあちゃん、すまん」という言葉を残した。幻覚症状の出た死の直前の病床でも、ブロックサインを出し続けたといわれる。最期の言葉は「後1本・・・、後1本・・・」であったという。

 1989年、偉業を記念して猫田記念体育館が広島市に完成した。2001年には国際バレーボール連盟の「世界バレーボール20世紀の最優秀賞特別賞」を受賞した。

 1983年9月4日死去(享年39)


野沢尚~謎の自殺を遂げた人気脚本家~


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◆野沢尚(のざわひさし 1960年5月7日生)
 [脚本家/小説家]


 愛知県出身。父親は、京都大学名誉教授で京都大学霊長類研究所の所長も務めた生物学者・野澤謙。愛知県立昭和高等学校、日本大学芸術学部映画学科卒業。シナリオライターになろうとしたきっかけは、中学時代から映画監督志望で、8ミリカメラで自主映画を作っていたが「映画はまずシナリオありき」と思い立ち、独学で始めたことであるという。1983年、映画『V・マドンナ大戦争』が第9回城戸賞に準入賞したことがきっかけとなり、プロの道を志すようになった。1989年、北野武の映画監督デビュー作『その男、凶暴につき』の脚本を手掛けたことでも知られている。テレビドラマや映画の脚本で高い評価を受ける一方、ミステリー小説にも幅を広げ、1997年に小説『破線のマリス』で第43回江戸川乱歩賞を受賞。1998年、『眠れる森』『結婚前夜』で第17回向田邦子賞を受賞した。

 2004年6月28日、東京都目黒区の事務所マンションで窓の取っ手に紐のようなものをかけ、首を吊って死んでいるところを妻によって発見された。野沢の突然すぎる謎の自殺は芸能・放送界に大きな衝撃を与えた。自殺の2ヶ月前に放送されたテレビドラマ『砦なき者』には、自殺をほのめかすかのようにテレビ業界への絶望が描かれている。自殺した際には知人に「夢はいっぱいあるけど、失礼します」との遺書が残された。

 2004年6月28日死去(享年44)



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◆野沢尚(のざわひさし 1960年5月7日生)
 [脚本家/小説家]


 愛知県出身。父親は、京都大学名誉教授で京都大学霊長類研究所の所長も務めた生物学者・野澤謙。愛知県立昭和高等学校、日本大学芸術学部映画学科卒業。シナリオライターになろうとしたきっかけは、中学時代から映画監督志望で、8ミリカメラで自主映画を作っていたが「映画はまずシナリオありき」と思い立ち、独学で始めたことであるという。1983年、映画『V・マドンナ大戦争』が第9回城戸賞に準入賞したことがきっかけとなり、プロの道を志すようになった。1989年、北野武の映画監督デビュー作『その男、凶暴につき』の脚本を手掛けたことでも知られている。テレビドラマや映画の脚本で高い評価を受ける一方、ミステリー小説にも幅を広げ、1997年に小説『破線のマリス』で第43回江戸川乱歩賞を受賞。1998年、『眠れる森』『結婚前夜』で第17回向田邦子賞を受賞した。

 2004年6月28日、東京都目黒区の事務所マンションで窓の取っ手に紐のようなものをかけ、首を吊って死んでいるところを妻によって発見された。野沢の突然すぎる謎の自殺は芸能・放送界に大きな衝撃を与えた。自殺の2ヶ月前に放送されたテレビドラマ『砦なき者』には、自殺をほのめかすかのようにテレビ業界への絶望が描かれている。自殺した際には知人に「夢はいっぱいあるけど、失礼します」との遺書が残された。

 2004年6月28日死去(享年44)


白暁燕~凄惨な殺され方をした女優の娘~


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◆白暁燕(パイ・シャオイェン 1980年6月23日生)
 [台湾・白冰冰の娘]


 台湾の人気歌手、女優の白冰冰の(パイ・ピンピン)の一人娘として、日本人の漫画原作者梶原一騎との間に台湾で生まれたが、冰冰は暁燕が生まれる前に梶原と別居したため、暁燕は母冰冰の手元で育てることになった。成長するにしたがって、有名人である母親とともにテレビ出演する機会も増えた。

 1997年4月14日、暁燕は私立醒吾高級中学2年在学中に誘拐された直後、犯人グループから輪姦・暴行され、左手小指を切断された。母冰冰の元に輪姦された後の暁燕の半裸の写真と彼女の切断された小指、さらに助けを求める自筆の手紙が送りつけられ、500万アメリカ合衆国ドルの身代金が要求された。狙われた理由は諸説があるが、最大の理由は、長年に渡って台湾暴力団追放運動に携わっている白冰冰に対する報復であったといわれている。

 冰冰はなんとか身代金全額は揃えたが、現金の受け渡しに失敗。マスコミに情報が漏れ、中華日報と大成報が報道した為、引き渡し現場にマスコミが殺到する事態となり、暁燕は犯人グループのメンバーによって再度凄惨な輪姦・集団暴行を受け続けた果てに惨殺され遺棄された。

 4月25日に警察が犯人グループのアジトをつきとめて急襲し4人を逮捕したが、3人の主犯格(林春生・高天民・陳進興)を取り逃がした。

 4月28日、台北近郊の河で両手両足を木杭にくくりつけられた暁燕の遺体が見つかった。膣と肛門には鉄パイプが突き刺さり、両手両足の爪はすべて剥がされ、目が抉り取られていた。内出血は数百ヶ所以上、顔は原形をとどめておらず、警察官すら凄惨さに驚いたという。遺体発見時の写真を一部の新聞が掲載し、身代金受け渡しの際のマスコミの不手際が殺害の原因になったため、メディアへの批判が高まった。時の総統李登輝は、「犯人らを発見次第問答無用で射殺せよ」との命令を発した。

 8月8日、逃亡中の犯人らは会社経営者を誘拐し、家族は警察に通報せずに身代金の支払いに応じて解放されるという事件を引き起こす。8月19日、台北市内で犯人グループ3人と警官800人との銃撃戦が起こり林春生が射殺された。10月23日、残る2人は台北市の整形外科病院で顔を強引に整形させた後、医師夫妻と女性看護師の3人を殺害して逃亡。11月17日、高天民が警官隊に包囲されると、再び銃撃戦を起こすが、逃げ切れずに拳銃で自殺した。最後の陳進興は11月18日、南アフリカ大使館の駐在武官官邸に人質5人を取って立て籠もり事件を起こした後投降し逮捕された。

 陳に対し板橋地方裁判所は1998年1月22日に5件の誘拐・殺人・強盗に対し死刑5回、別の暴行事件等で懲役刑合計59年9ヶ月を言い渡した。高等法院(日本の最高裁判所に相当)も1999年3月16日に遺族に対し1億7130万台湾元(当時のレートで約6億3000万円)の賠償命令を言い渡した。同年10月8日に陳の死刑が執行された。

 事件は台湾社会に大きな衝撃を与え、台湾の治安悪化が問題となった。警政署長は責任をとって辞任。事件に対するマスコミの興味本位の報道は惨殺を引き起こした原因とも言われており大規模な抗議行動が起こった。母親の白冰冰は事件後に手記「燕よ、空へ―慟哭を乗り越えて」を出版。暁燕を記念して「白暁燕文教基金会」を設立、社会安全、道徳教育、誘拐被害者の心身のケアに関する法律の制定及び死刑の存続を訴え、事件の発生した4月14日に合わせて毎年活動を行っている。

 1997年4月19日死去(享年16)


ピアス・カレッジ~橋の欄干に激突死したレーサー~


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◆ピアス・レイモンド・カレッジ(Piers Raymond Courage 1942年5月27日生)
 [イギリス・レーシングドライバー]


 エセックス州コルチェスター出身。イギリスのビール醸造メーカー、カレッジ・ブルワリーの経営者一族の出身。イートン・カレッジ卒業後、会計事務所で働くが、1963年に退職し、友人のジョナサン・ウィリアムズと本格的にレース活動を始める。1967年1月2日の南アフリカグランプリで、ロータスとBRMのシャシーを使用するプライベートチーム、レッグパーネルからF1デビュー。2年間在籍した後、1969年にはブラバムのシャシーを使用するフランク・ウイリアムズのチームに移籍、二度の2位表彰台を獲得する活躍を見せた。この活躍にフェラーリも誘いをかけるほどであったが、結局翌年も残留することとなった。

 1970年にチームは、デ・トマソのシャシーを使用していたが前年に比べ予選順位も奮わず、決勝レースでも完走を果たせずにいた。こうして迎えたザントフォールト・サーキットでの第5戦オランダグランプリにおいて彼の乗った車はイースト・トンネル手前の右コーナーでスピンし、外側ガードレールに衝突してコースアウト(このサーキットをよく知るジャッキー・イクスは、このコーナーでのカレッジのシフトワークが危険であるとカレッジ自身に注意を促していた)。さらにその先のイースト・トンネルの橋の欄干に激突し、コース横の草地に転落し炎上、カレッジは死亡した(車が炎上した時点で即死していた)。28歳の若さであった。フランク・ウイリアムズや特に親しかったヨッヘン・リントは彼の死により大きなショックを受けることとなった。

 1970年6月21日死去(享年28)


ブイコー・タマーシュ~薬品やハンマーやナイフで惨殺された柔道家~


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◆ブイコー・タマーシュ(Bujko Tamas 1959年7月1日生)
 [ハンガリー・柔道選手]


 ブダペスト出身。1981年のヨーロッパジュニア60kg級で優勝を飾り、1983年の世界選手権では銀メダルを獲得した。1984年のロサンゼルスオリンピックはハンガリーがボイコットしたために出場できなかった。1985年には階級を65kg級に上げると、世界選手権で3位になり、1986年のグッドウィルゲームズでも3位、1987年の世界選手権も3位だった。翌年のソウルオリンピックでは5位で大会を終えた。

 ブイコーは2004年にロンドンに移り住むと、食品加工会社に勤務するようになった。2007年9月に元の家にあった所有物を引き取るために戻ったところ、そこに代わって住み始めた同じハンガリー出身のイフィ・フェレンツと口論になった。その際にブイコーはイフィをゲイ呼ばわりすると、イフィの友達が見ている前でイフィに腕緘を仕掛けて恥をかかせた。この時の負傷に関して医者は打ち身と診断したが、イフィは骨折したと主張している。しかし警察は何の対応もしなかったことから、ブイコーに対する復讐を計画することになった。

 2008年3月21日の早朝、ハーロウにある地下鉄のサドベリー・ヒル駅の外側でイフィはブイコーを見つけると、塩化カリウムをブイコーの顔に投げつけた。ブイコーは悲鳴を上げて地面を転がり回って助けを求めるも、イフィはお構いなしにブイコーへパンチを浴びせて踏み付けた。さらに、ハンマーで何度となくブイコーの頭部を含めた全身を叩きまくった。続いて2種類のナイフでブイコーの顔や目を切り裂いた。ブイコーがイフィを何とか振り払おうとするが、今度はブイコーの指を削ぎ落とし始めた。その後、イフィは警察に身柄を拘束されたが、ブイコーは死亡した。なお、これは多数の通勤者が見ている前での惨劇だった。裁判の結果、イフィは終身刑を言い渡されたが、何の改悛の情も示さなかった。それどころか、ブイコーに対する怒りが今だに収まらないと語っていた。

 2008年3月21日死去(享年48)


平和日佐丸~妻の後を追い自殺した漫才師~


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◆3代目平和日佐丸(へいわひさまる 本名:溝畑勲 1933年生)
 [漫才師]


 兵庫県生まれ。1954年に宝塚新芸座に入る。1956年秋に秋田Aスケ門下となり秋田Oスケと名のる。その後、横山ノック(秋田Kスケ)と漫才コンビ「秋田Oスケ・Kスケ」を結成。京都新京極・富貴で初舞台。1958年に松竹芸能に移籍。解散後、平和ラッパ(2代目)とコンビを結んで平和日佐丸(3代目)に改名。「ラッパ・日佐丸」の全盛期を築くが、ギャラの配分を巡って紛糾し、コンビを解消。

 のち、美人漫才師であった波多フラット(元園蝶世・花世の花世)とコンビを組み、その後、三田ホップの名で「三田ホップ・ステップ・ジャンプ」のトリオを結成。その後足の病気を患い入院。1968年に妻が不倫の末駆け落ちして失踪しそのまま心中自殺。これにショックを受け、後を追うように自殺した。

 1968年?月?日死去(享年35)


穂積由香里~積木くずしとその後の悲劇~


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◆穂積由香里(ほづみゆかり 1967年12月16日生)
 [タレント]


 俳優・穂積隆信の長女であり、社会現象にもなった穂積隆信のベストセラー『積木くずし』のモデルである。

 1982年に発刊された『積木くずし』は、持病といじめにより、非行に走った由香里と両親の葛藤を赤裸々につづった手記。

 約300万部のベストセラーとなり、テレビドラマ化、映画化もされるなど話題を呼んだが、実名をさらされたことなどからかえって好奇の目やバッシングにさらされ、彼女自身の非行はエスカレートしていった。

 1983年にはトルエン所持で逮捕。覚醒剤取締法違反でも2度逮捕された。

 1986年に穂積由里の芸名でテレビドラマ『妻たちの課外授業』で女優デビュー。ヌードまで披露した芸能活動は成功せず、アメリカ留学中に知り合った男性と結婚するが、のちに離婚。クラブ「積木の家」を経営するなどしたが、亡くなる前は父とその再婚相手の後妻と同居し、知人のスナックの手伝いをしていたという。

 20代で腎臓を患って、十数年の闘病生活を送り、2000年には腎不全で入院。その年の秋には実母からの提供で生体腎移植を受ける。

 2003年8月18日、隆信夫妻と同居する都内のマンションの自室で亡くなっているところを発見された。行政解剖の結果、死因は多臓器不全で、13日夜から14日未明にかけて死亡したとみられる。35歳の若さだった。

 父は仕事先から帰京した8月20日に火葬場で遺体と無言の対面。棺には『積木くずし』を3冊入れたという。

 2003年8月18日死去(享年35)



マイク・ブルームフィールド~不眠症に悩みヘロイン中毒死したギタリスト~


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◆マイク・ブルームフィールド(Mike Bloomfield 本名:マイケル・ベルナルド・ブルームフィールド 1943年7月28日生)
 [アメリカ・ギタリスト/歌手]


 イリノイ州シカゴのノース・サイドのユダヤ系の家庭に生まれた。少年期をサウス・サイドでシカゴ・ブルース・シーンで過ごす。1960年代初頭、CBSのディレクタージョン・ハモンドのオーディションを受けた後、ポール・バターフィールドの誘いでバターフィールド・ブルース・バンドに加入してリード・ギターを担当し、1965年デビュー作『The Paul Butterfield Blues Band』をエレクトラ・レコードから発表する。そのエレクトリック・スタイルのブルースは、シカゴのブルース・シーン自体にも影響を与え、多くのブルースマンがエレクトリック・ギターを手にするようになった。同年7月25日、ニューポート・フォーク・フェスティヴァルにおいて、ボブ・ディランのバック・バンド、バターフィールド・ブルース・バンドに参加、フォーク・ロックの確立にも大きく貢献した。また、ディランがこの時期に制作していた『追憶のハイウェイ 61(Highway 61 Revisited)』にも、リード・ギタリストとして参加している。

 1966年、バターフィールド・ブルース・バンドは『イースト・ウエスト(East-West)』を発表する。LSDによる覚醒を元にジョン・コルトレーンの様にジャズやインド音楽などの影響を取り入れた新境地を開拓した。1967年、バターフィールド・ブルース・バンドを脱退し、シカゴ時代の盟友、バリー・ゴールドバーグ、ニック・グレイヴナイツ、そしてサンフランシスコで活躍していた若手のバディ・マイルスらとともにエレクトリック・フラッグを結成する。アメリカン・ミュージック・バンドとも称し、幅広い音楽性を志向した。ファースト・アルバム『A Long Time Comin』を録音した後、グループを脱退する。1968年、モビー・グレープのアルバム『Grape Jam』にセッション参加。同年、CBSのディレクターでもあったアル・クーパーからジャムセッション・アルバム制作の話を持ちかけられて、クーパーと共にアルバム『スーパー・セッション(Super Session)』を録音するが、ブルームフィールドは2日目のセッションに参加せず、スティーヴン・スティルスが代役を務めた。また、クーパーらと、1968年9月にサンフランシスコのフィルモア・ウェストで行ったライヴを収録した『フィルモアの奇蹟(The Live Adventure of Mike Bloomfield and Al Kooper)』を発表する。これらのアルバムによってセッション・ブームを巻き起こした。

 1969年にソロ・アルバム『イッツ・ノット・キリング・ミー』を制作、同時期にフィルモア・ウエストで録音をした『Live at Bill Graham's Fillmore West』を同年にリリースする。1970年代以降は目立った活躍が少なくなるが、1973年にジョン・ハモンド・ジュニアやドクター・ジョンとの『三頭政治(Triumvirate)』や、カーマイン・アピスらとのグループKGBでアルバムをリリースした。また、インディペンデントのレーベルに録音を残すなどしている。

 1981年2月15日、サンフランシスコの駐車場の車の中で、ヘロインのオーバードースとみられる症状により亡くなっているのが発見された。ブルームフィールドは長年にわたって不眠症に悩まされ、ヘロイン中毒の問題を抱えていた。

 1981年2月15日死去(享年37)


三門順子~キングレコードの第一号美人歌手の死~


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◆三門順子(みかどじゅんこ 本名:富山静子 1915年9月25日生)
 [歌手]


 栃木県出身。長唄を習い、18歳の時、NHKのオーディションを受け合格。NHK文芸部、久保田万太郎の推薦でキングレコードに入る。1935年7月にキングレコードから「水兵節」でデビューしこの年から専属制度を設けたキングレコードの第一号歌手となる。1937年「さくら道成寺」「祇園絵日傘」、1939年「暁の決死隊」、1941年「筑紫の明月」、1947年「それで良いのよ」などがヒット。1938年に児玉好雄と吹き込んだ「愛馬行」(愛馬進軍歌のB面)が大ヒットする。またこの時期に井口小夜子と共にその美貌から「キングの名花2輪」とも称されていた。戦前・戦中期にかけて活躍する。その後、同キングレコード専属だった樋口静雄と結婚した。

 1954年4月4日、胆石痛で死去。

 1954年4月4日死去(享年38)


ムハンマド・ナジーブッラー~局部を切り取られ車で引きずり回された政治家~


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◆ムハンマド・ナジーブッラー(Mohammad Najibullah 1947年8月6日生)
 [アフガニスタン・政治家]


 パシュトゥーン系のギルザイ部族連合アフマザイ部族出身で、部族長の孫としてカーブルで生まれた。ナビブッラー高校を卒業した後、カブール大学で医学を学んだ。1965年には共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党(PDPA)に入党し、パルチャム派に属する。政治活動に携わりながら、1975年に大学を卒業した。1977年には党の中央委員会に入り、幹部となった。

 その後、1978年にPDPAによるムハンマド・ダーウード政権打倒のクーデターが成功したが、PDPA内はハルク派とパルチャム派に分かれており、このクーデターで支配権を得たのはハルク派であった。ナジーブッラーは駐イランアフガニスタン大使としてテヘランに短期間赴任したが、やがて政治の世界から姿を消し、ヨーロッパに亡命した。

 1979年、ソ連のアフガン侵攻が起こると首都カブールに戻り、翌年には秘密警察KHADの長官に任命された。このナジーブッラーの下で、数万人に及ぶアフガン国民がKHADにより逮捕、拷問、処刑されたとされる。

 1986年5月4日、バーブラーク・カールマル革命評議会議長が失脚すると、ナジーブッラーは同議長に就任。また、1988年11月29日、ロヤ・ジルガにおいて大統領に選出された。しかし、1989年にソ連軍が撤退すると、彼自身が任命した国防相によるクーデターが発生し、独裁的政治手法を緩めるなど懐柔策をとったが、ムジャーヒディーン勢力の抵抗運動に屈服し、1992年に大統領職を辞任。カブールから逃れようとするも、ラシッド・ドスタム将軍により阻まれる。結局ナジーブッラーはカブール市内の国連事務所の庇護下に置かれた。

 しかし、1996年9月26日にイスラム原理主義勢力ターリバーンがカブールを制圧し、政権を獲得するとナジーブッラーは国連が用意した逃亡用の自動車から引きずり出され、翌27日、アフガニスタンを混迷に陥れ、神の意思に従わぬ背信者などとして局部を切り取られた上に市内を車で引きずり回され、その遺体は吊るし上げられた。側近を務めていた実弟も同時に殺害され、共に遺体を吊るされた。

 1996年9月27日死去(享年49)


メアリー・ベーコン~災難続きで自殺を遂げた美人騎手~


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◆メアリー・ベーコン(Mary Bacon 1948年1月1日生)
 [アメリカ・騎手]


 イリノイ州シカゴ生まれ。酒飲みの父は何度も職を失い、一家は西部の各地を転々として暮らした。その後オハイオ州に移り、そこで育った。馬とは縁のない家庭だったが、メアリーは近所の農場で馬を乗りこなす活発な少女であった。16歳でディズニー映画の馬を見て競馬に興味を持ち、イギリスの騎手学校への留学資金を稼ぐために競馬場でアルバイトをした。ハイスクール卒業後にイギリスに渡ってイングランドの騎手学校で訓練を受けたのち、1967年頃からデトロイトの競馬場で騎手としてのキャリアをスタートさせた。

 しかし、当時のヨーロッパや日本の地方競馬では女性騎手が登場し始め参戦していたが、アメリカ競馬界は封建的で、騎手免許を取得した女性騎手ペニー・アン・アーリーに対し、男性騎手がストライキを起こすなどして抵抗し、まともにレースで騎乗することができないというありさまであった(ペニー・アン・アーリーは一度もレースに出場することなく引退している)。このように完全なる男尊女卑の社会であったアメリカ競馬界において、メアリーも同様にレースデビューできない不遇の日々を過ごすこととなった。その間、メアリーは同僚のジョニー・ベーコン騎手と結婚、1969年3月には娘を出産した。陣痛の2時間前まで調教で騎乗しており、出産後わずか2週間で騎乗を再開したという。

 1960年代後半からアメリカでは女性解放運動(ウーマン・リブ)が起こり始め、女性の労働の自由が認められるようになった。その影響から競馬界においても不当な男女差別が問題視され、1969年に女性騎手の出場が許されるようになった。そしてついに念願のレースデビューを果たしたメアリーは、同年6月5日に初勝利を挙げると今までの鬱憤を晴らすかのように非凡な才能を発揮し、東海岸を中心にシーズン396回の騎乗で55勝を挙げる好成績を残した。

 メアリーの活躍がアメリカの女性解放運動の象徴として大々的に取り上げられると、メアリーは女性騎手としての活躍のみならず、その美貌からも注目され、スポーツ誌は勿論、そのほかファッション誌の『Vogue』でも特集が組まれ、娯楽雑誌の『PLAYBOY』ではヌードを披露したこともあった。また、化粧品メーカー『レブロン』と契約し、同社の広告塔としても起用された。

 人気・実力ともに充実するメアリーだったが、1975年に人種差別団体として悪名高い「クー・クラックス・クラン(KKK)」の集会に参加したという疑惑が浮上。この件で大バッシングを受けると、メアリーの人生はこのあたりから暗転を始める。1974年に323回あった騎乗依頼は1975年に143回、1976年は38回にまで激減した。前夫のジョニー・ベーコン(1972年に離婚)が1977年に自動車事故で死亡。1978年11月には大井競馬場の招待競走で来日し、1週間で24戦6勝という好成績を挙げるも、翌1979年5月にゲートの故障がもとで落馬し馬に踏まれて大怪我を負い、1982年6月10日には落馬による頭部外傷で8日間意識不明に陥る事故に見舞われた(以後傷の後遺症に悩まされることとなる)。また、厩務員の少年に乱暴されたりなど、さまざまな困難が続いた。更に、これに追い討ちをかけるように子宮頸癌に罹ってしまう。

 これ以上の乗馬がかなわないと悟ったメアリーは、1991年6月7日、テキサス州フォートワースのモーテルでピストル自殺を図り、翌8日搬送先の病院で死亡した。遺言により遺体は火葬され、遺灰はベルモンドパーク競馬場のゴールラインの上に撒かれた。そこは予後不良で世を去った名牝ラフィアンが埋葬された目の前であったという。

  1991年6月8日死去(享年43)


アイリーン・ウォーノス~刑死した女性連続殺人鬼のパイオニア~


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◆アイリーン・ウォーノス(Aileen Wuornos 1956年2月29日生)
 [アメリカ・連続殺人者]


 ミシガン州ロチェスターに生まれたアイリーンは、不幸な子供時代を送ったといえる。父親に会ったことはないが、彼女の父親レオ・デイル・ピットマンは精神病を患い、児童を虐待した事もあったためカンサス州やミシガン州の精神病院に入退院を繰り返した。1969年、13歳の少女に対する強姦罪で有罪となり服役中に自殺した。アイリーンの母親ダイアン・ウォーノスは15歳のときにレオと結婚、キースとアイリーンの二人の子供をもうけるが、アイリーンが生まれる前に離婚。アイリーンが4歳のときに母親ダイアンは子供を捨てて出て行ってしまったため、二人は祖父母に育てられる。

 アイリーンによると、祖父は彼女を肉体的にも性的にも虐待したという。また祖母はアルコール依存症であった。彼女はかなり若い頃から複数の異性と性的な関係を持ったと語っている。相手には兄のキースも含まれていたという。14歳で妊娠した彼女は家族から縁を切られ、1971年にデトロイトの病院で子供を出産。その子はすぐに養子に出された。アイリーンは森の中の廃車の中で暮らすことを余儀なくされるが、後に未婚の母親たちのための施設に送られる。

 1971年に祖母が亡くなった後、学校を辞め、娼婦として生計を立てるようになる。1974年、飲酒運転中に車から銃を発射し、コロラドで逮捕される。その後ミシガンに戻り、1976年にはバーでの暴力行為で再び逮捕される。アイリーンは罰金を兄のキース(喉頭がんで21歳で死去)の生命保険で払い、残りの金を浪費した。同年、ヒッチハイク中にフロリダで69歳の裕福な男性ルイス・フェルに出会う。二人はすぐに結婚する。この結婚は彼女の人生を変えるチャンスであったが、アイリーンはフェルに辛く当たり、バーで暴行事件に巻き込まれるなどしたため、1ヶ月後にフェルにより結婚無効を申し立てられてしまう。

 1981年、フロリダで、ビキニ姿でコンビニエンスストア強盗を働いた容疑で逮捕。翌年刑務所に送られたが13ヶ月後に釈放。1984年にはキー・ウエストの銀行で偽造小切手を使用しようとした容疑で逮捕。1985年12月には銃と弾薬を盗んだ疑いがかけられ、11日後に無効な運転免許で運転していたために拘束された。1986年1月、重窃盗罪で逮捕。マイアミ警察は彼女が運転していた盗難車からリボルバー銃と弾薬を発見。同年、デイトナのゲイバーでティリア・ムーアという24歳の女性と出会う。すぐに恋人同士になり、一緒に暮らすようになる。ティリアはホテルのメイドの職を辞め、アイリーンが売春で稼ぐのを助けるようになる。二人の恋愛感情は1年ほどで冷めていったが、しかし信頼しあえる友人として一緒に行動し、安ホテルだけでなく古い納屋や森の中で夜を過ごすこともあったという。1987年、デイトナ・ビーチ警察は男性に対する暴行容疑でアイリーンとティリアを拘留。同年、アイリーンは無効な運転免許の保持、州間高速道路を歩行したことで召喚状を受ける。

 1988年3月、デイトナ・ビーチでバスの運転手に暴行を働いたと訴えられる。アイリーンは運転手が口論の末に彼女をバスから押し出したと主張。7月にはアパートでの破壊行為により大家から訴えられる。1989年頃には、彼女の振る舞いは明らかに常軌を逸したものとなっていく。好戦的になり、出かけるたびに誰かと口論を引き起こし、装填された銃を携帯するようになる。売春と盗みで生計を立てていたが、娼婦としては高齢であったことなどからなかなか客がつかなかったために必要最低限のものを買うのにも事欠くようになる。

 1989年、アイリーンを車に乗せたリチャード・マロリーというTV修理業を営む51歳の男性が最初の犠牲者となった。後に次々と5人の男性の遺体が見つかる。マロリーを除いた被害者は下記の通り。
・デイヴィッド・スピアーズ(重機オペレーター、43歳)
・チャールズ・キャルズカドゥーン(ロデオライダー、40歳)
・トロイ・バーレス(トラック運転手、50歳)
・ディック・ハンフリーズ(元警察署長、ソーシャルワーカー、56歳)
・ウォルター・ジーノ・アントニー(トラック運転手、60歳)
・ピーター・シームズ(キリスト教系新興宗教団体の伝道師、65歳、車は発見されたが遺体は見つからなかった)

 アイリーンとティリアは、犠牲者の一人ピーター・シームズの車を運転中に事故を起こしたことから捜査線上に浮かび、数ヶ月後に潜入捜査官の手により逮捕される。アイリーンはマロリーの件に対して、彼が彼女をレイプしようとしたためと正当防衛を主張したが、1992年に有罪判決を受ける。ティリアは警察に協力するようになっていた。同年11月にマロリーが別の州において暴力的なレイプ行為のために10年服役したことが明らかになったが、彼女に再審の機会は与えられなかった。

 1992年3月、アイリーンはディック・ハンフリーズ、トロイ・バーレス、デイヴィッド・スピアーズを殺害した容疑を認めた。6月にチャールズ・キャルズカドゥーン殺害容疑も認め、5つ目の死刑判決を受ける。1993年2月にはウォルター・ジーノ・アントニー殺害容疑も認めた。ピーター・シームズに関しては遺体が見つからなかったために起訴されなかった。アイリーンは彼女の犯した犯罪に関して、つじつまの合わない供述をしている。7人の男性を別々の機会に殺害したことを語っている。アイリーンは彼らにレイプされたと主張したが、後にその主張を撤回している。

 最初の死刑判決後、それこそが彼女が望んでいるものだと語った。2001年になると、なるべく早く死刑が執行されるようにと働きかけだした。彼女は「私はあの男達を殺して、冷酷に金品を奪った。そしてもう1度やるだろう。だから自分を生きたままにしておくのは何の益にもならない、また殺すと思うから。・・・自分は法的能力があり、正気で、真実を語ろうとしている。私は人間を憎み、また殺人を犯すだろう。」と語った。

 2002年10月9日、フロリダ州刑務所で薬物注射によって死刑が執行された。アイリーンは1976年の最高裁による死刑解禁判決以来、アメリカで死刑になった10番目の女性である。最期の晩餐は、予算2000円。 ケンタッキーフライドチキンのチキンとフライドポテトだった。2003年、アイリーンの伝記映画『モンスター』がアメリカで公開された。映画の中では特にアイリーンとティリアの関係に重点が置かれている。主演のシャーリーズ・セロンがアカデミー主演女優賞を受賞した。

 2002年10月9日死去(享年46)


アイリス・チャンアイリス・チャン~「ザ・レイプ・オブ・南京」著者の死~


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◆アイリス・チャン(Iris Shun-Ru Chang 1968年3月28日生)
 [アメリカ・ジャーナリスト/作家]


 中国系アメリカ人。アメリカ合衆国ニュージャージー州プリンストン生まれ。チャンが2歳の時、一家はイリノイ州シャンペイン・アーバナに転居し、チャンは同地で成長した。

 ユニバーシティ・ラボラトリー・ハイスクールを卒業後、ジャーナリストを志してイリノイ大学ジャーナリズム学部に進み、ジャーナリズムの学士号を得る。AP通信およびシカゴ・トリビューンでの短い勤務の後、ジョンズ・ホプキンス大学の大学院で学び、25歳のとき作家としてデビュー。

 1997年、日中戦争における「南京大虐殺」を扱った『ザ・レイプ・オブ・南京』を刊行。アメリカではワシントン・ポストが紙面で大きく本書を取り上げ、チャンの主張を詳細に紹介した。また、ニューヨーク・タイムズで絶賛され、同紙のベストセラーリストに10週間掲載された。

 『ザ・レイプ・オブ・南京』は、「日本軍が南京で数週間の間に一般市民約26万人から35万人を虐殺し、女性2万人から8万人を強姦した」などと論じたものである。しかし、あまりにも多くの事実誤認や掲載写真の誤りなどがあったため、記述内容の真偽をめぐって物議を醸した。その掲載写真が全て捏造だという批判もある。

 その後チャンは、第二次世界大戦中のフィリピンで日本軍と戦い捕虜になった米軍兵士の過酷な運命(バターン死の行進)に関する作品に取り組んでいた。しかしながらうつ病を患い、入退院を繰り返していた。彼女はカリフォルニア州サンノゼのサニーディルで夫と2歳の息子と暮らしていたが、2004年11月9日の午前9時頃にカリフォルニア州サンタクララ郡の国道17号線、ロスガトスの南で自動車の中で死んでいるのを通行人によって発見された。サンタクララ郡警察は状況証拠からチャンが銃で自分の頭を撃ったものと断定した。後に3通の遺書が見つかっている。遺書の中には、自分がCIAのような米国の政府組織からつけ狙われていて逃げ場所がないゆえの自殺だと断定した記述もあった。

 一方、精神的に追いつめられたチャンが真実を語ることを恐れた者達によって口封じの為に抹殺されたという噂もある。

 2004年11月9日死去(享年36)


青山加奈~女優の夢を絶たれたレースクイーン~


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◆青山加奈(あおやまかな 1976年3月7日生)
 [レースクイーン/タレント]


 身長163、B83、W58、H86の抜群のプロポーションを武器に、車部品メーカー「5ZIGEN」のレースクイーンとして『永岡彩』として1997年にデビュー。その後、『青山加奈』に改名してタレント活動を開始。東京ローカルの深夜番組などに準レギュラーとして出演、飯島愛が以前所属していた「オフィスレオ」の所属だったことから、“ポスト愛”と呼ばれていた。

 1998年2月21日午前2時すぎ、宿泊先の大阪市中央区のホテルの部屋で突然倒れ、近くの病院に運ばれたが、午前4時ごろ死亡。行政解剖の結果、死因は急性心不全と判明した。彼女はもともと発熱しやすい体質で、直前に下痢症状を訴えており、数日間の休暇を取っていた。生前、将来の夢として「浅野ゆう子さんのような女優になること」と話しており、女優をめざして頑張っていた矢先だった。

 1998年2月21日死去(享年24)



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